品とは、何かしら?
その人がいると、清らかな空気がそこに流れるような、そういう雰囲気を持ちたい。
その人がそこにいるだけで、あたりが柔らかな空気で包まれるような、そんな素敵な人でありたい。
品とは、何かしら?
例えば、心を込めて贈り物を贈ることや、花を愛でる心。
そういうことではないだろうか。
人の苦労や痛みがわかり、いたわることのできる優しさ。
お先にどうぞと言える心の余裕…。
日々幸せでないと、そういったことってなかなかできないと思う。
多分、小手先の技術ではない。
日々、様々なことに感謝しながら過ごすことで、
心が満ち足りて、いつも大らかな気持ちでいられるのだろう。
そして、自然と相手の気持ちを考えるゆとりができて、相手を思った行動につながるのだろう。
富める時も、貧しき時も、ガツガツせずに落ち着いて自分の幸せを保つことができること。
その佇まいが“品”なんだろうな。
それはきっと、生まれとか、収入とか、生活レベルによらないもの。
以前、『秘密の花園』を読んだとき、貧しいお家のディコンという少年が出てきたんだけど、彼のお母さんは彼のボロボロの服にきちんとツギハギをあてて、“ちゃんとしたお家の子ですよ”ということを示していた、それがとても印象的だった。
そして、貧しくとも、素敵なお母さんに愛情いっぱいに育てられたディコン少年は、やはり彼の周りの動物や植物、人々に愛情を降り注いだ。その結果、秘密の花園もそれを取り巻く人々の心も、最初は枯れてしまったかのように見えたのに、彼の愛情を受けて芽吹き、やがて花で満ち溢れるのだった。
それから、『シャンタラム』という本に、インドのスラムの人々が出てきた。
彼らも、貧しくても清く正しく品性を持って生きていた。
彼らの住処は隅々まで掃除が行き届いてとても清潔だったし、
どんなに生活が苦しくても、隣人におめでたいことがあると、お祝いをケチることなんてなく、心から祝福していた。
そして、何か悲しいことがあれば心からいたわり、助け合う、そういう人々だった。
生きていると、辛いこと、苦しいこと、悲しいことに出会うことがあるけれど、
そしてそういうことに出会うと、人は、自分ばかりを可哀想に思ってしまうけれど。
自分より上の人を見て羨ましがったり、おこぼれにあずかろうとしたり。
自分より下の人を見て安心したり、馬鹿にしたり。
自分が辛いからって人にあたったり。
他の人も同じように苦しめばいいと、人の足を引っ張ったり。
自分さえ良ければいいと、苦しんでいる人が助けを求めているのに知らないふりしたり。
辛くて、苦しくて、悲しくて、心の余裕がなくなってしまうと、ついそういう風になってしまいがちだけれど。
けれど、そうじゃなく。
自分が今いる場所で、きちんと生活をすること。
その場所が、上がろうが、下がろうが、変わらず花を愛で、心を込めて贈り物を贈ること。
そういう心の幸せを、上品と呼ぶのだろう。
願わくば、私も、そういう風にありたい。
梨木香歩の本
仕事で疲れてると、梨木香歩の本が読みたくなる。
ビジネスの世界は、あまりに速くて、
交渉し、取引し、駆け引きし、、、
その余裕のなさにしばしば疲れてしまう。
そうやって人類は発展してきたわけだし、
そこに生きる人々はみんな、それぞれに一生懸命で誠実で、愛すべき人達だ。
ビジネスというもの自体を、そしてそこに絡む人々を、とても愛おしく思う。
だけど、時に疲れてしまう。
自分が本来在るべき場所が、向かうべき方向が、小さい頃は意識しなくたってわかっていたのに。
水の感覚、土の匂い、髪をはためかせる風、そして植物…。
いつだって、冬になると枯れたように見えるけれど、春になれば芽吹くこと。
決して裏切ることなく毎年春を迎えてくれること。
陽の光を受けてぐんぐんと伸びてゆく、健全な力。
そういう魔法のもとで生きてきた。
あたたかな心、寂しい気持ち、愛おしく思う気持ち、同じ時代を生きる他の生き物に対しての共闘心とでもいうべきか、そんな気持ち。
そういった感じる心、もうどこかに置き忘れてきてしまったけれど。
たまには呼び戻すように。
本来、自分があるべき世界に戻って、深呼吸するように。
忙しいときは、梨木香歩の本が読みたくなる。